23年3月28日、12時15分、和歌山県にある和歌山線の岩出駅を王寺行きの普通列車が定刻通りに発車した。
その列車は、2両編成のワンマン運転で、227系というステンレス製の車体に緑色などの帯が入った電車が使用されている。
その電車の運転席では、運転士の平岡(ヒラオカ)が、前方の安全確認を繰り返しながら、列車を走らせていた。
平岡は59歳の男で、電車の運転士になって35年以上経つベテランである。
岩出駅を出た列車は、次は、下井阪駅に停車する。
その日は、沿線の桜の花がほぼ満開で、天気も良かったのか、日中にしては乗客が多かった。
列車が、下井阪駅に近づいたとき、突然、車内から悲鳴が聞こえた。
まだ列車は走行中なので、車内へ目を向けることができないが、尋常な様子ではなかった。
列車が下井阪駅に停車すると、安全確認をしたあと、乗降用のドアを開けた。
その矢先、乗客の中年過ぎの女性が、
「運転士さん、大変ですよ!」
と、大きな声を出しながら、駆け寄ってきた。
「どうされましたか?」
と、平岡運転士が聞き返すと、
「若い女の人が、急に倒れたのです」
と、その女性は答えた。
「確認させてください」
と、平岡は、やや大きな声で言ったあと、運転席から立ち、車内に目を向けた。
すると、20歳前後に見える女性が、電車内の床に倒れているのが、目に入った。
その女性は、ベージュ色の薄手のコートを着ていて、ジーンズを穿いていた。
ほかの乗客たちも、不安そうな顔で、倒れている女性を見ていた。
平岡は、その女性に、
「お客様、どうされましたか? 大丈夫ですか?」
と、声をかけた。
しかし、何の反応もなかった。
顔色も皮膚の色も変わっていた。
「運転士さん、まさか、その女の人、死んでるのですか?」
と、近くにいた年配の男性客の一人が、蒼い顔で言った。
平岡には、その若い女性はすでに死亡しているように見えた。
しかし、「死亡しています」と答えるのは躊躇った。
乗客がパニックを起こす可能性があるからである。
「運転士さん、どうするのですか?」
と、今度は、別の女性客が言った。
すると、平岡は、
「これから、警察に連絡します。お客様には申し訳ありませんが、しばらく、車内にとどまっていただけますか!」
と、はっきりとした口調で言ったあと、運転席に戻り、乗降用のドアを閉めて、無線で警察に来てもらうように連絡した。
それから、10分足らずで、パトカーなどが何台か、サイレンを鳴らしながら、下井阪駅の前に来た。
下井阪駅は、住宅が建ち並ぶ田園地帯にある小さな無人駅で、普段の乗降客はそれほど多くないが、駅には大勢の警察官が入ってきて、駅周辺は騒然としてきた。
警察官が、平岡運転士に、列車のドアを開けてほしいと告げると、先頭車両の乗降用のドアを開けた。
制服の警察官や鑑識員などが、次々と入ってきた。
それから少しあとには、機動捜査隊の刑事も来た。
2両編成の列車は、下井阪駅からしばらくは動けないだろう。