3月28日の昼の12時半頃を過ぎた頃、1台の覆面パトカーが、サイレンを鳴らしながら、和歌山県警本部から出発した。
 和歌山市街地の和歌山城近くにある県警本部から出た覆面パトカーは、国道42号線、国道26号線を北上し、一級河川の紀ノ川の少し手前の交差点を右折し、国道24号線を東へ進んだ。
 覆面パトカーには、和歌山県警捜査一課の玉置和紀(タマキ・カズノリ)警部と、玉置の部下で巡査部長の雑賀(サイカ)刑事が乗っていた。
 運転していたのは、雑賀である。
 玉置は50歳で、捜査一課配属になって10年近く経つ。
 雑賀は43歳で、昨年の春に、捜査一課配属になった。
 玉置と雑賀の2人は、和歌山線の列車で、乗客が死亡しているという、JRからの通報を受けて、その列車が止まっている下井阪駅に向かって急行していた。
 なぜなら、殺人の可能性も否定できないからである。
 雑賀が運転していた覆面パトカーは、国道24号線をしばらく東へ走り、午後1時より少し前に、下井阪駅前に到着した。
 小さな駅の前には、既に多数のパトカーが赤灯を点けて止まっていて、駅の入口には規制線が張られていた。
 玉置と雑賀は、覆面パトカーから降りると、駅の入口に立っていた制服の警察官に警察手帳を見せて、駅のホームに入った。
 下井阪駅は、駅舎はなく、ホームが1本だけの無人駅である。
 そのホームの横には、2両編成の電車が止まっていた。
 行き先は王寺だった。
 玉置と雑賀は、先頭の車両のドアから車内に入った。
 車内には、乗客のほか、機動捜査隊の刑事、所轄である岩出中央警察署の制服警察官、鑑識員、所轄の刑事課の刑事などがいた。
「ご苦労さん」
 と、玉置は、車内にいた警察官たちに一声かけて、
「そのホトケさんの身元はわかったのか?」
 と、所轄の刑事に聞いた。
 20代後半くらいに見える若い男性刑事は、
「所持していた身分証明書などから、被害者は、東京都世田谷区に住む高沢レナ(タカザワ・レナ)さんのようです」
 と答えた。
「えっ、タカザワ・レナさん?」
 と、雑賀は、驚いたような声を出した。
 すると、玉置は、
「雑賀君、知っとるのか?」
 と聞いた。
「警部、ご存じないのですか? 今、人気上昇中のタレントですよ。息子がすっかり大ファンになりましたね」
 と、雑賀は答えた。
「俺は、最近の若い芸能人には疎くてな」
 と、玉置は苦笑いしたあと、
「まさか、和歌山線で若いタレントのご遺体に対面するとか思わんかったな」
 と言った。
「それで、高沢レナは、この電車に一人で乗っていたのか?」
 と、所轄の刑事に聞くと、
「ほかの乗客の証言から、そのようです」
 と、若い刑事は答えた。
「その被害者の死因は何やね?」
 と、今度は、玉置が聞いた。
「遺体を調べてみないと、詳しくはわかりませんが、青酸死と思われます」
 と、所轄の刑事は答えた。
「で、そのホトケさんが亡くなっとるのに、最初に気づいたのはどなたやろか?」
 と、玉置が聞くと、所轄の刑事は、
「谷崎恵美子(タニサキ・エミコ)さんとゆう、57歳の女性の乗客です」
 と言いながら、中年過ぎに見える女性のほうへ目を向けた。
 玉置は、その女性に近づきながら、
「あなたが、その女性が亡くなっとるのに、最初に気づいたのですね」
 と、入念そうに聞くと、
「そうです」
 と、恵美子は答えたあと、
「その方は、私の右隣に座っていたのですが、この電車が岩出駅を出たあと、私に寄りかかってきて、そのあと崩れるように床に倒れていったのです」
 と、説明するように言った。
「それで、そのあと運転士に知らせたのですね?」
 と、玉置が念入りに聞くと、恵美子は、
「そうです。顔色が変わっていたし、息しとるようにも見えなかったのです」
 と言った。
「それで、谷崎さんは、どちらまでこの電車に乗る予定やったのですか?」
 と、玉置が聞くと、恵美子は、
「それは、ほかの刑事さんにも言いましたけど、粉河までですわ。粉河駅で紀の川市に住んでる友達と会って、粉河寺へ桜を見に行く予定でした」
 と、やや不快そうな顔で答えた。
 ほかの警察官からも、何度も似たような質問をされたのだろう。
 玉置は、所轄の若い刑事に、
「谷崎さんは、この電車には、どの駅から乗られたのかな?」
 と聞いた。
「和歌山駅からだそうです。ちなみに、お住まいも和歌山市ですね」
 と、所轄の刑事は答えた。
「で、被害者の高沢レナは、どうゆう理由で、この電車に乗ってたんやろうか?」
 と、玉置が言うと、
「被害者の所持品から、西国三十三箇所の巡礼かもしれませんね」
 と、所轄の刑事は言いながら、手袋をはめた手で、レナのものと思われるハンドバッグを持って、玉置に見せた。
 玉置も、手袋をはめてハンドバッグを開いて、中身を確認した。
 ハンドバッグの中には、西国三十三箇所巡礼の納経帳が入っていた。
 その納経帳を開くと、第一番札所である那智山・青岸渡寺の御朱印と、第二番札所の紀三井山・金剛宝寺(紀三井寺)の御朱印を受けていたことも、確認できた。
 御朱印の横には、受けた日付も墨で書かれていて、青岸渡寺の御朱印は23年3月27日、金剛宝寺の御朱印は23年3月28日のものだった。
「ホトケさん、昨日は那智山行って、今日はこの電車に乗る前に、紀三井寺へ行ってたようやな」
 と、玉置は言った。
 ほかには、財布や自宅のものと思われるカギ、スマートフォン、芸能プロダクションの身分証明書、化粧品数点、コインロッカーのカギなどがあった。
 財布には、キャッシュカードやクレジットカードのほか、現金が8万円あまり入っていた。
 また、ハンドバッグには、JRの乗車券もなども入っていて、改札印の入った和歌山から420円の乗車券のほか、未使用の粉河から東京までの乗車券と、特急『くろしお24号』の和歌山から新大阪までの特急券、新幹線『のぞみ434号』の新大阪から東京までの特急券があった。
 所持していた乗車券や特急券は、いずれも3月28日の日付のものだった。
 特急券は、普通車指定席のものである。
「高沢レナは、粉河寺に行ったあと、この和歌山線で和歌山駅まで引き返して、今日の特急『くろしお』と新幹線『のぞみ』で東京へ帰る予定だったんやな」
 と、玉置は、乗車券や特急券を見ながら言った。
 それから間もなく、機動捜査隊の刑事の一人が、玉置の前に来て、
「乗客たちが、いつまでここで足止めしているんだと怒っています」
 と言った。
「この電車の乗客の住所や氏名は確認したのか?」
 と、玉置が言うと、
「はい。今、この電車内にいる乗客については、全員確認しました。所持品検査にも協力してもらいましたが、不審なものは見つかっていません」
 と、機動捜査隊の刑事は答えた。
 それから少し経つと、平岡という、50代後半くらいにみえる運転士の男性が、玉置のそばに来た。
 平岡運転士は、困惑した顔で、
「刑事さん、いつまで、ここに停車してたらいいんですか。いつまでもこの駅に止まったままやと、後続列車だけやなく、対向列車も走れへんのですよ」
 と言った。
 和歌山線は単線で、下井阪駅は、すれ違いや追い抜きができない駅である。
「わかりました。これから、被害者の遺体と所持品を、所轄の岩出中央署へ運びます。運転士さんは、この電車を次の打田駅まで走らせて、乗客たちを降ろして、別の電車に乗り換えてもらってください」
 と、玉置は言った。
「そのあと、私は、どうしたらいいんですか?」
 と、平岡運転士が言うと、
「乗客を降ろしたあと、車庫へ回送してもらいたいのですが」
 と、玉置は答えた。
 そして、高沢レナの遺体は、担架にのせられて、ワンボックス型の警察車両で、岩出中央警察署へ運ばれた。
 そのあと、2両編成の列車は、次の打田駅へ向かって、ゆっくりと動き出した。
 玉置と雑賀も、覆面パトカーに戻り、岩出中央署へ向かった。